素直な心

”素直な心”永遠のテーマです。

後見人

今日は、今年初めての、後見人をしている叔母の通院の付き添い日。いつものように、鹿児島市の施設に、1時間半かけて迎えに。

叔母の後見人になって、もう、6年目になるのかな。2年目には、痴呆がが出て、3年目からは、寝たきりになって、そして、ここ2年は、ほとんど意識も薄れて、ほとんど、目を閉じて寝ている。
それまで、後見人の経験もないまま、母が健在の頃、母に、叔母(母の妹)は、子供がいなくて1人なので、面倒を観てあげてと、たのまれていて、

実際に後見人になってみると、知識のないまま、急になった為に、何もわからなくて、そして、手元に来るのは、叔母に代わっての、終末期までのいろんな人生の決定事項。他人である私が、叔母の人生を決めるのである。

手が震えてくる。

叔母とは、終末期のことを何も話し合うこともなく、叔母とはいえ、他人なので、私の気持ちだけで、叔母の終末期の姿を、決めることも出来ず、自然に任すしかなくて、母の時は、事前に母から、こうしてくださいと、聞いていたので、穏やかな終末期だったのてすが、叔母の今の姿、どう観ても、穏やかな姿ではない。確かに、完全看護で、環境はいいが、膀胱には、排尿のための管。鼻には、流動食の管と、タンが喉につまらないようにと、吸引の為の管も、意識はほとんどない。自分の意思があるのかもわからないまんま、寝たきり。もう、96歳になる叔母。ここ一年くらい、そんな叔母の姿を観て、長いこと後見人をしていると、母に頼まれたことでもあって、私のなかで、叔母以上の母に近い、感情も生まれて、月1回の付き添いの時、これで、叔母は満足なんだろうかと、母のように、たとへ、早く終末期を、迎えたとしても、身体に管を繋がれることもなく、安らかな気持ちで、過ごさせるべきであったのではないかと、ここ2年くらい、月1の通院の付き添いの時、叔母の姿を見るたびに、人として、これが正しい選択肢だったのかと、自問自答して、苦しい気持ちになる。
家族であっても、人が人の死を、決めることなんて、許させることではない。
それは、わかっている。
でも、私自身、心が、感情がつぶれそうになる。
コロナ面会が出来なくなってから、(今は出来る。)寂しくないようにと、部屋には、叔母が、元気な頃作っていた、パッチワークの作品を、いくつか壁に貼ってあげている。叔父の写真と共に、大好きたった、亡きペットの写真も、そして、4年目になるかな。叔母の部屋には、10日おきに、花のアレンジメントが届くようにしている。今では、それが、施設中の話題になって、花が届くたびに、施設の介護士の方や、また、元気で動ける入所者のお婆さんや、お爺さんらが、部屋に見に来るらしい。
これで、叔母も、きっと、寂しくはないかな。
何も決められない、私自身の気休めなんですが・・・・。

また、今日も、その月1の日。

苦しいけれど、頑張って、笑顔で会いに行こうと。