素直な心

”素直な心”永遠のテーマです。

責任って

死について、
昨日、テレビで、死についての特集番組があった。
考えてみたら、私も今年、70歳になる。そんななか、私と同じくらいの有名な方が、亡くなるニュースも、耳に飛び込んで、
自分では、そんなに気にしていないつもりでも、70歳という年齢を前に、やっぱり、知らず知らずのうちに気になっているのかもしれない。
また、ここ15年近く、母の介護、そして、今は叔母の後見人をやっているなか、母の死を看とり、今は、叔母の終末期を、どんな形で迎えさせてあげるかを、介護施設の方達と相談しながらっていうか、私の自宅が、施設から遠方にあるため、任せっきりなんですが、
三年前だったかな。施設のケアマネジャーの方、そして、施設医との面談のなかで、叔母の終末期までの事を、決めてもらえないかとの相談があって、一枚のアンケート用紙みたいなものを提示されて、そのなかには、これからの叔母へ施す医療を、どういう形にするか、食べ物が自分で食べられなくなったら、流動食は、緊急の場合の心臓マッサージは、呼吸器をつけるか、救急車を呼ぶのか、そんな細かいことが沢山書いてあって、その一項目、一項目に、きちんと答えていかなければならないようになっていて。
母の時も、同じようなことはあったが、兄弟で、話し合いながら、また、母からは、生前、こうしてと、ちゃんと聞かされていたから、何よりも、母だから、きちんと決められた。
でも、叔母の場合は、親戚とはいえ他人。生前の話し合いもしていない。そんななかで、私自身で、叔母のこれからの生き方を定めなければならない。そんな重い重責なんて、これまで経験もない。自分自身の生き方さえも、迷ってばっかりの人間が、言葉は不適切かもしれないが他人の死に方を、決める役割をしなければならない。
そんな重い重責、出来るはずもなく、ある意味、経験豊富なケアマネジャー、施設医の言われるままに、
その結果が、今の叔母の姿。鼻には、胃まで伸びた栄養補給用の管が、枕元には、痰を吸い取るための機器が、置いてあって、膀胱には、尿を出すための管が繋がれていて、食事は、管から直接胃に、尿は自然に管から、便は、流動食といっても、ジュースみたいなもので、ほとんど無い。意識はあるが、感情は、あるのか無いのかわからない。施設の方に聞くと、時々、目は覚めるが、ほぼ寝ているらしい。これが、今の叔母の日常。
毎月、1回、膀胱に繋がれている管の交換に私か付き添って、病院に、つれていくのだが、その度に、叔母の姿を見て、自問自答している。自分の決断力のなさを思いながら。
正直、月一の、この日が私には、自分の弱さを確認してるような気持ちで、結構辛い。
でも、この事から、目をそらす訳にはいかないことも事実。とにかく、最後まで、まっとうしなければ、
その気持ちだけ。